ヨーク大学日本語科三学年読解教材
AS/JP3000 6.0
Lesson 1:「教師冥利」Greatest joy for a teacher
長年教師をしていて、何といっても一番うれしいのは、自分の教えた学生が成功している姿を見ることではないだろうか。日本語弁論大会や奨学金やJETプログラムなど学生時代にその成果をあげる学生はもちろんのことであるが、長い間経って、昔の学生にばったり会い、その活躍ぶりを知ることは、特に教師冥利に尽きる経験である。自分の場合、教師生活が来年で三十年になるのだが、色々な国の大学を渡り歩いてきたので、残念ながら、昔教えた学生との接触はほとんどない。それでも中には、時々近況を知らせてくれる学生もいて、その便りを楽しく読ませてもらっている。最近は電子メールの一般化で、たやすく連絡が取れるので、本当に便利になった。自分のような筆不精にはまったくありがたい武器ができたものである。
先日、バンクーバーから飛行機で一時間ぐらいのプリンス・ジョージ市にあるノーザンブリティッシュコロンビア大学で、カナダ日本研究学会があり、私もコンピューター関係のパネル発表をするために出席した。この学会も三回目で、顔見知りも増え、初日の歓迎会でその人達と歓談していた。すると、一人の中年の出席者が、やってきて、「太田先生?」と声をかけるではないか。ぱっと見た瞬間、すぐには名前を思い出せなかったが、「ジョージ・大城です。」 と言われて、記憶が蘇ってきた。二十三年前に、母校の国際基督教大学で教えた学生の一人であった。その当時、ちょうどベトナムのサイゴン大学での三年間の仕事を終え、日本に帰ったばかりであったが、たまたま、恩師の小出詞子先生のお口添えで、集中日本語コースの文法を担当させていただくことになって、海外からの留学生を教えていたのである。大城氏の顔をよく見ると、確かに昔の面影が残っており、ああ、あのやんちゃなジョージだとすぐ思い出した。ハワイ出身の彼は、その後ブリティッシュコロンビア大学で歴史で博士号を取り、日本人の奥さんと結婚し、現在は桜美林大学で教鞭を取っているとのことであった。そこで、しばし昔話に花が咲いたのであるが、非常に懐かしく、うれしかった。当時集中日本語コースには学生が六十人ぐらいいたと思うが、私の文法の授業は、いつも満員で、高度な質問も多く、その文法の説明を聞こうという学生で、常時熱気がこもっていたのを覚えている。その夏、フルブライトの交換教授でニュージャージー州にあるシートンホール大学に移ったので、母校で教えたのは高々六ヶ月であったが、自分が若かったこともあって、今でもよく覚えているクラスである。数年前に、トロントのプリンスホテルで開かれたビジネス関係の学会に出席した時も同じような経験があり、やはりレセプションの時だったと思うが、しばらくこちらの方を見ているアジア人に気がついた。するとその人は、つかつかと近づいてきて、「太田先生?」と聞くではないか。こちらもとっさに記憶が蘇り、「デービッド・ライさん?」 と口から出た。彼は、大城氏と同じクラスにいた香港からの留学生であった。
教師は一人で学生は多数なので、大きいクラスでは、一人一人の学生と知り合いになる機会が少ない。大城氏が私の家内のことまでよく覚えてくれていたのには驚いたが、少数精鋭のクラスの重要さを実感しただけでなく、教師と学生との人間的交流がいかに大切かということも再認識させられた。大城氏が、学会の他の参会者に、「厳しかったが、一番いい先生だった。」 とさかんに言ってくれていたが、教師の存在が、それぞれの学生の中に、それほど残っているものかと、改めて教えることの大切さと、怖さも思い知らされた。すべての学生を満足させられる教師は、まず存在しないであろうが、教えることに興味と情熱を失っている教師の多い現代において、なぜ教育の荒廃が叫ばれているかの一つの理由は自明であろう。
大城氏やライ氏を含めて、昔の学生の皆さんに、今後の活躍を祈ると同時に、教師としての自分を育ててくれたことに感謝したいと思う。
太田徳夫
1998年10月7日
トロントにて |