ヨー ク大学日本語科三学年読解 教材

AP/JP3000 6.0 Reading Comprehension

Japanese Studies Program, York University

第二課 「一生に一度でいいから 奥さんの言うことを信じなさい。」

Lesson 2: Once in your life, believe what your wife says.


 

ミシ ガン州立大学の大学院にいるある夏、家内と四人の子供たちを連 れて、六週間のカナダ西部横断のキャ ンプ旅行に出かけた。途中で、家内の親戚や友達の家に泊まったり、キャンプ場でテントを張ってカ ナダの広大さを満喫した。古いバンを持っ ていたので、後ろを子供が寝られるようにして出かけた。ア ルバータ州に入るまでは非常に平坦な道路を毎日何百キロと走り、それこそ道端に生えている木やすれ 違う車の数を数えるくらいが、気を紛らわ せる術であった。エコー渓谷というところで、大地が切断さ れているのは印象的であった。カナディアン・ロッキーではいくつか温泉巡りをして楽しかった。 

 

家内 は、子供のころからキャンプ旅行には慣れていて、四人の子供の 面倒を見ながら、てきぱきと、物事 を片づけてくれるので助かった。ロッキーに行く前から、熊が出るから気をつけるように言っていた。私 は、半信半疑であったが、一番大きなキャ ンプ場を選ぶことにし、ウィスラーヒル・キャンプ場を選ん だ。確か、キャンプサイトが三百五、六十はあるロッキーでは最大のキャンプ場であったと記憶してい る。ゲートのところで、女性の係官に、家 内が熊が出ると言っているが、本当かとたずねてみた。彼女 曰く、「一生に一度でいいから、奥さんの言うことを信じなさい。」 それでも、私は、キャンプ場にい る大勢の人を見ながら、まさかーと思って いた。

 

指定 されたサイトにテントを張り、そのころまでには、私もだいぶ手 際がよくなっていたが、家内は夕食 の支度、子供たちは薪取りなぞ、典型的なキャンプ風景が繰り広げられた。食事も終わり、家内は、食 べ物の匂いのするものは、すべてきれいに 洗い、バンの中にしまい、子供たちもバンの中に寝かせ、標 高千五六百メートル以上の山中はしんしんと冷え込んできたが、 キャンプファイアーの前に座り、コーヒー を飲みながら、カナダの雄大さを満喫していた。夜の十一時ごろ、家内はすでにテントで寝ており、私 は透き通る夜空の大きな星などを見て感慨 に耽っていた。

 

する と、突然バンの陰でがさっという音がし、ふと目を向けると、 中型の黒熊が、こちらを見ているで はないか。「青天の霹靂」、いや、「闇夜の烏」、とでも言った方 がい状況である。夕方子供たちの作っ た、熊除けの缶からに小石を入れたのは、離れたテーブルの上にあり、とっさに、死んだふりをする ことも考えたが、既に時遅し。それでも、 キャンプファイアーが赤々と燃えているし、こちらはその前 で椅子に座っていたので、ここまでは来ないだろうという少々の余裕はあった。ところが、である。熊 はどんどんこちらに向かって来るではない か。私は、飲みかけのコーヒー・マグを握ったまま硬直した。 まさにフリーズである。私も熊の方を見ないようにしていたが、 熊の方も、目を合わせないで近寄っ てくる。昔の剣豪同士の果たし合いというような殺気が頭をよぎる。はっと思った瞬間、半ズボンをは いている私の膝小僧を熊の毛がこすってい く。私とキャンプファイアーの間、約五十センチのところを 熊は、堂々と通って行ったのである。その間目線は一度も合わせず、であったが、まさに熊の示威行為 と思われた。

 

その 時までは、それほど恐いという感じはなかったが、熊が次ぎに家 内の寝ている、テントの回りをくん くんかぎ出した時には、焦った。しかし、さすが、キャンプなれしている家内であった。食べ物の匂い はまったくなかったので、熊はあきらめた ように暗がりに消えて行った。その時すぐ家内を起こして熊 の報告をしたかどうかは定かではないが、次の朝、近くで、「熊 だ。熊だ。」という大騒ぎが聞こえた。 ちなみに、キャンプ場で餌を漁る熊は、三回、百キロぐらい離れた所まで連れて行き、それでも戻っ てきた場合は殺すのだそうである。元々自 分のシマなのにと可哀相な気もした。

 

普通 なら、これで話が終わるところであるが、そうではなかった。三 日後にこのキャンプ場を離れ、バンクー バーに向かったのであるが、途中で、同じキャンプ場で、二 人の男性が熊に襲われ、一人は片目 を失い、もう一人は片腕を失うというニュースを聞いたのである。 家内の話によると、子熊を連れてい る母熊は、人が子熊に餌をやったりしていると、狂暴になるそうである。私の出会った熊は、あうんの 呼吸が分かっていたような気がする。


これが我が家の熊物語である。


1997 年 5月29日 トロントにて

太 田徳夫


 

[語彙]


横断(する) おうだん(する) go across
親戚 しんせき relatives
張る はる pitch
満喫(する) まんきつ(する) enjoy fully
平坦(な) へいたん() flat
道端 みちばた roadside
紛らわす・せる まぎらわす・せる divert
すべ method
渓谷 けいこく valley
切断(する) せつだん(する) cut off
印象的(な) いんしょうてき()
impressive
温泉 おんせん hot spring
巡り めぐり going around
慣れる なれる become accustomed to
面倒 めんどう care, trouble
片づける かたづける put away
くま bear
半信半疑 はんしんはんぎ half convinced
選ぶ えらぶ choose
確か(な) たしか() certain
記憶(する) きおく memory
係官 かかりかん officer in charge
曰く いわく state
大勢() おおぜい() many
指定(する) してい(する) designate
手際 てぎわ skill
支度(する) したく(する) prepare
まき fire wood
なぞ
old form of など
典型的(な) てんけいてき()
typical
風景 ふうけい scenery
繰り広げる くりひろげる unfold
匂い におい smell
標高 ひょうこう above sea level
雄大() ゆうだ い() magnificent
透き通る すきと おる transparent
夜空 よぞら night sky
感慨 かんがい deep emotion
耽る ふける be indulged in
突然 とつぜん suddenly
かげ shadow
中型 ちゅうがた medium size
青天の霹靂 せいてんのへきれき a bolt from the blue
闇夜の烏 やみよのからす a craw in a pitch-dark night
状況 じょうきょう situation
除け よけ prevention
かん can
離れる はなれる be apart from
既に すでに already
遅い おそい late
燃える もえる burn
椅子 いす chair
座る すわる
sit down
余裕 よゆう room
握る にぎる grip
硬直(する) こうちょく(す る)
stiffen
近寄る ちかよる come closer
むかし old times
剣豪 けんごう great swordsman
同士 どうし each other, between
果し合い はたしあい
duel
殺気 さっき thirst for blood
瞬間 しゅんかん moment
膝小僧 ひざこぞう kneecap
堂々(と) どうどう() with great dignity
目線 めせん eye contact
示威行為 じいこうい demonstration
恐い こわい fearful
焦る あせる get worried
匂い におい smell
暗がり くらがり darkness
消える きえる disappear
報告(する) ほうこく(する) report
定か(な) さだか()
sure, certain
大騒ぎ おおさわぎ commotion
えさ food
漁る あさる look for
戻る もどる return
return
territory
可哀想(な) かわいそう() pity
普通 ふつう()
usually
襲う おそう attack
片目 かため one eye
片腕 かたうで one arm
失う うしなう lose
狂暴(な) きょうぼう() violent
あうん[阿吽]
well timed
呼吸(する) こきゅう(する) breathe

              


© Norio Ota 2009