ヨーク大学日本語科三学年読解 教材

AP/JP3000 6.0 Reading Comprehension

Japanese Studies Program, York University

第七課 「翻 訳」

Lesson 7: Translation


 

最近やっとレジナルド・ビビー氏の「モザイクの狂気」の日本語訳を脱稿した。色々事情があって、なかなか終わらせることが出来ず出 版社にはずいぶん迷惑をかける仕儀となったが、生半可に翻訳など出来ないという感じを強くした。翻訳を手がけたことがある人なら、誰しも経験することであ るが、翻訳が、基本的には一つの文化をもう一つの文化に投射する仕事であるために、二つの言語はもとよりかなりそれぞれの文化に造詣なくしてはほとんど不 可能であると言える。いや、両言語・文化にかなり精通している人にとっても、翻訳は容易な仕事ではないのである。日本は世界でも有数の翻訳王国であるが、 学生時代に読んだ訳書にはかなりひどいものもあった。特に哲学書などは、ちんぷんかんぷんで何が書いてあるのか分からないものが多かった記憶がある。ハイ デッガーの「存在と時間」などは、多分原文か英訳を読んだ方が分かりやすかっただろうと思う。「誤訳」という本が出るほどであるから、いちいち翻訳書を当 たってみたら、誤訳の数は限りなくあることであろう。

 

最近は、特に、「政治的正しさ」ということが言語表現に関する無言の検定基準になっているので、翻訳者は大変である。差別用語に聞 こえるものはすべて検閲官の目が光っているので、めったやたらなことは言えないし書けない。「めくら」「おし」「つんぼ」「びっこ」というような明らかに 差別用語であるものは、使用を控えるのは当然としても、それらが出てくる古い書籍までも、この基準で改定しようとする動きにはついていけない。もう少し難 しいケースとしていくつかあげてみよう。Women’s issue これは「女性問題」と訳しがちであるが、やはり、「女性に関する論争点」とでもすべきであろう。Single parentとかone-parent family 「片親」とか「片親家庭」になってしまいそうであるが、「片親」というイメージを含めないために「一人親」とか「一人親家庭」とい うように新しい用語を作ることにした。  Intermarriage なども通例「国際結婚」と訳されるが、「混成結婚」にしてみた。Inequities は「不公平」になりがちであるが、「不公正」の方が少し中立的な響きがあってよいと思われる。こう見てくると、翻訳者は未だに新し い用語・表現を作り出す役割を持っていることが分かる。古代から日本が中国と朝鮮 [旧名なのであえて韓国としない]から新技術と用語を輸入した時は、ほぼ漢字を使えたが、江戸時代から明治・大正期の訳者・学者達 の苦労は並大抵ではなかったであろう。恐いのは、我々が現在使っている、外来の語彙の訳語が、いかに本来の意味からかけ離れているかが実際に原語をかなり 修得してみなければ分からないことである。democracyが「民本主義」「民主主義」と訳されたことを見ても分かるように、それぞれの訳語には訳者がいかに原語の意味を解釈し日本語に輸入 しようとしたかの苦労がうかがえる。最近の傾向としては、漢字を使わずに、カタカナで外来語を表記することが多くなった。Informed consent などは「告知された上での同意」というように訳せるが、いかにも翻訳的でなじみにくい。こんな場合、訳者は訳語に原語をつけるか、注釈をつけるかするの が、常であるが、一般には「インフォームド・コンセント」になってしまう。漢字の造語力が非常に限られてしまっている日本語では、無理のないことかもしれ ないが、将来ますます漢字が使われなくなるだろうと予想される。「化石化」した漢字文化が発展的に生き延びる術はないものであろうか。これもやはり「持続 可能性」サステイナビリティーの問題であると思われる。

 

 

1999 年4月 30日

トロントにて

太田徳夫 


 

[語彙]


翻訳(する) 
ほんやく(する) translation
最近 さいきん recently
狂気 きょうき madness
脱稿(する) だっこう(する)
finish writing
色々(な) いろいろ(な) various
事情 じじょう situation, reason
出版社 しゅっぱんしゃ publisher
迷惑(をかける) めいわく(をかける)
trouble
仕儀 しぎ result, situation
生半可() なまはんか() imperfect, half-baked
()手がける
take up
誰しも だれしも everyone
経験(する)
けいけん(する) experience
基本的() きほんてき()
fundamental
文化 ぶんか culture
投射(する) とうしゃ(する)
project
仕事 しごと work
言語 げんご language
造詣 ぞうけい knowledge
()造詣が深い ()ぞうけいがふかい erudite
不可能()
ふかのう() impossible
精通(する) せいつう(する)
be versed in, be familiar with
容易()
ようい()
easy
世界 せかい
world
有数()
ゆうすう()
leading, prominent
王国 おうこく kingdom
時代 じだい era
訳書 やくしょ translation (book)
特に とくに particularly
哲学書 てつがくしょ philosophy book
ちんぷんかんぷん
gibberish
記憶(する) きおく(する) memory
ハイデッガー

Heidegger, Martin
存在 そんざい existence
時間 じかん time
存在と時間
Sein und Zeit
多分 たぶん probably
原文 げんぶん original text
誤訳 ごやく mistranslation
かず number
限りない かぎりない limitless, endless
政治的正しさ せいじてきただしさ political correctness
言語表現 げんごひょうげん linguistic expression
関する かんする regarding
無言()
むごん()
silent
検定基準 けんていきじゅん criteria for approval
大変() たいへん()
hard, troublesome
差別用語 さべつようご
discriminatory expression
検閲官 けんえつかん
inspector, sensor
目が光る めがひかる keep an watchful eye on
めったやたら()
reckless and thoughtless
めくら
blind
おし
mute
つんぼ
deaf
びっこ
lame
明らか() あきらか() obvious
使用(する)
しよう(する)
use
控える ひかえる refrain
当然()
とうぜん()
as a matter of course
書籍 しょせき books
基準 きじゅん criterion
改定(する)
かいてい(する) revise
動き うごき move
難しい むずかしい difficult
女性 じょせい
female
訳す やくす translate
論争点 ろんそうてん (disputed) issue
片親 かたおや single parent
家庭 かてい home
含める ふくめる include
用語 ようご terminology
作る つくる create
通例 つうれい
customarily
国際結婚(する) こくさいけっこん international marriage
混成 こんせい mixed
不公平() ふこうへい()
unfair
不公正()
ふこうせい() unjust
中立的() ちゅうりつてき()
neutral
響き ひびき sound, effect
未だ() いまだ() still
表現(する)
ひょうげん(する) express
役割 やくわり role
古代 こだい ancient times, antiquity
朝鮮 ちょうせん old name of Korea
旧名 きゅうめい old name
あえて
dare, venture, on purpose
韓国 かんこく South Korea
新技術 しんぎじゅつ new technology
輸入(する) ゆにゅう(する) import
漢字 かんじ Kanji character
使う つかう use
江戸時代 えどじだい Edo Era
明治 めいじ Meiji Era
大正 たいしょう Taisho Era
period, era
学者 がくしゃ scholar
たち [plural marker]
苦労(する)
くろう(する) go through hardships
並大抵()
なみたいてい() no easy (task)
恐い こわい scary
我々 われわれ we
現在 げんざい present
外来() がいらい()
foreign origin, imported
語彙 ごい vocabulary
本来()
ほんらい() original
意味 いみ meaning
かけ離れる かけはなれる be far apart from
実際()
じっさい() actual
原語 げんご original language
修得(する)
しゅうとく(する)
acquire
民本主義
みんぽんしゅぎ Sakuzo Yoshino's term
for 'democracy'
民主主義 みんしゅしゅぎ democracy
解釈(する)
かいしゃく(する) interpret
傾向 けいこう tendency
表記(する) ひょうき(する) transcribe
告知(する) こくち(する) inform
同意(する) どうい(する) consent
翻訳的() ほんやくてき() translation like
なじむ
become familiar with
場合 ばあい case
注釈(する)
ちゅうしゃく(する) annotate
()
つね() usual, customary
一般() いっぱん() general
造語力 ぞうごりょく creative power
非常() ひじょう() extreme
限る かぎる limit
無理()
むり() impossible
将来 しょうらい future
予想(する) よそう(する) predict, anticipate
化石化(する) かせきか(する) fossilize
発展的()
はってんてき() developmental
生き延びる いきのびる survive
すべ means
持続可能性 じぞくかのうせい sustainability


© Norio Ota 2009