AP/JP4000 .6.0 Advanced Readings in Modern Standard Japanese
Japanese Section, York University
Reading & Writing: Essay, metaphor
「座右の銘」 Favourite Motto
太田徳夫
今の若い人はどうか知らないが、人それぞれ自分の好みの格言・名言・警句な どを持っているものである。 それらはその個人の考え方や 人生に対する態度などを示すという点で興味深い。日本語にあるこの種の表現は中国の故事また韻文に由来するものが多いが、西洋にも非 常に多くの名句・名言がある。ドン・キホーテの「ローマは一日にして成らず」、パスカルの「人間は考える葦である」、トルストイの「愛は惜しみなく奪う」、デカルトの「我思う、故に 我在り」、新約聖書の「笛吹けど踊らず」、ルソーの「自然に帰れ」、シーザーの「賽は 投げられたり」、「ブルータスよ、おまえもか」、シェークスピアの To be or not to be, that is the question.、など良く知られて いる。物の見方や考え方も共通するものも多く、学生時代に英語における諺を調べている時に、洋の東西を問わず、人間は同じように考える ものだなと感心したことがある。例えば、「ローマに行ったら、ローマ人のようにせよ」は、「郷に入っては郷に従え」、It is no use crying over spilt milk. は 「覆水盆に返らず」、ヒポクラテスの「芸術は長く 人生は短し」は「少年老い易く学成り難し」など、非常に良く似ている。もちろ ん翻訳によって入っているものも多いと思われるので、それぞれの出典を調べて みないとどちらが先なのか分からない場合も多い。 例えば、Rolling stones gather no moss. と「転石苔を生さず」、Time flies like an arrow. と「光陰矢の如し」などはどう見て も翻訳臭い。それはともかくとして、今でも残っている有名な 表現には、昔の人の叡智が凝 縮されている ので、特に人生・人間性に関する鋭い洞 察に充ち ていると言える。
私が昔から好きなのは、「小人閑居して不 善を為す」とか「一 炊の夢」また上記の「光陰矢の如し」などで、自分が、仏教の諸行無常、人生が如 何に短いかという見方に影響されていることが分かる。その他に、「今浦島」とか「一 期一会」とか「去るものは日々に疎し」 など、海外生活の長い自分の経験から本当にそうだなと思い当たるものも多い。私は、中学・高校 時代から漢文・漢詩が好きだったので、今でもいくつか覚えているものがあるし、その中に出てく る表現には、今の言葉で「かっこいい」ものがあった。「異 客」は王 維の「獨在異郷為異客」(獨り異郷に在りて異 客と為る)が出典であるそうだ が、自分の人生にぴったりのような気がして、気に入っている表現 である。ちょっと「いいかっこしい」かなとも思うが。また、詩経「他山之石・可以攻 玉」(他山の 石・以って玉を攻く可し) に出てくる「他山の石」、陶淵明の「桃源郷」、唐 書にある「日 暮れて途 遠し」、孫 子の「呉 越同舟」、無 門関「羊 頭狗肉」など、 自分の気に入っているものの中 に入る。
このように自分の嗜好を見てみると、中国の古典の中の「人生のはかなさ」を詠ったものに共 鳴を覚えていることは明白である。これは自分の育った時代・社会背景に影響されたもの であろうが、中学から高校時代、厭世観に苛まれて、禅 宗の坊さんになろうと禅 寺の門を叩いた経験もあるほどである。中国の古典の中でも「三国志 演義」や「紅 楼夢」などを読み、平 家物語の「盛 者必衰」、「奢る者 久しからず」、「兵どもの夢の跡」、滝 錬太郎の名歌「荒 城の月」、杜 甫の春 望と いう詩の中の「國破山河在・城春草木深」(國破れて山河在り・城 春にして草 木深し)から の引用「国破れて山河あり」、淮南子にある、「一葉落ちて天 下の秋を知る」などに共通する 心は、やはり、李白の「光陰者百代之過客(なり)」であろう。それゆえ、もっと威勢のいい格 言や名言は自分の「座右の銘」 にはなっていない。例えば、「青雲の志」、「大 器晩成」、「天 長地久」、「登竜門」、「滔天の勢い」な ど。もっとも、このような希望 に満ちた前向きの表現は、あま り多くない。やはり、人生の終 わりに近づき、振り返ってみて の感 慨を込めた もの、また、自己の反省に基づ いて後世の人を戒めたもの がほとんどである。特に、逆境 における故事の中の、「四面楚歌」(史 記)、「錐 股の勉」(戦 国策)、「髀肉之嘆」(三国志)、「粉 骨砕身」(証道歌)、「自 業自得」(正法念経)、「一 敗地に塗る」(史記)、「臥 薪嘗胆」(史記)、「同 病相憐れむ」(古詩)などはよ く使われる表現である。
こういう故事や諺の中には、よく誤解されるものもある。すぐ頭に浮かぶの は、「情けは人の為ならず」、「李下に冠を整さず」、「君 子は豹 変す」(易 経)、「宋襄の仁」(十 八史略)、「朝 令暮改」(後漢書)などは、よく新解釈が取り上げられて、話題になる。
日本語の諺の中にも人生の機微をついたものが数多くある。私の好きなものを拾ってみると、「会うは別れの始め」、「雨降っ て地固まる」、「金の切れ目は縁の切れ目」、「好事魔多し」、「紺 屋の白 袴」、「親しき仲にも礼儀あり」、「住めば都」、「大山鳴動してねずみ一匹」、 「習うより慣れろ」、「三つ子の魂百までも」、「昔取った杵柄」、「六十の手習い」。
ここにあげたのは、もちろん、数多くの故事・名言・諺のごく一部である。初 めにも書いたように、自分が気に入っているものを列挙してみると、自身の価値観や、行動規範がその中にかなり明確に現れているように 思う。皆さんの場合はどうであろうか。日本においては脱漢語化の傾向が非常に強くなって、若者たちは、前の世代の人よりこういう表現 に接することが少なくなっていると思われる。日本に帰って大学生に話をしているとかなりの世代間のコミュニケーションの断絶を感じる昨今であるが、中国や日本の先人たちの人生に対する教訓・警句・価値観が珠玉のように凝 縮したこのような表現を学ばずに、同じような過ちを繰り返すとしたら、それこそ貴重な時間と人生を無駄にすることになるのではないだ ろうか。私も「成年老い易く学成り難し」を「頂門の一 針」として、「五十の手習い」を始めている。
2003年12月31日
トロントにて
太田徳夫
© Norio Ota 2003