Japanese Section
DLLL, York University
ヨーク大学日本語科四学年読解教材

をしなくなった若者たち」
私は、日本から来る学生によく、失恋した経験があるかと聞くことにしている。ほとんどの学生、特に女子学生が、あの特有抑揚で「ありませーん。」と答える。ということは、熱烈恋愛などしたことがないということである。私は、大学四年間に異性との交際の中で、恋愛もし、また失恋の経験をすることが、人生にとって非常に大切なことだと思っているので、大学時代に異性に対する目を肥やさなかったら、結婚相手を見つける時困るぞと言うが、どうも熱烈な恋愛をする相手に巡り合わないようである。その原因はいろいろと取り沙汰されているが、男性の女性化軟弱化、それに対する女性の男性化実力発揮などが考えられる。カナダの女性の中にも、同世代の男性は頼りなく、幼稚で結婚の対象にはならないという人が多い。こちらの慣用句に、「いい男の人は、結婚しているか同性愛者だ。」というのがあるが、非常に実感こもっている。
人間一般的思春期になれば、誰かが好きになり、片思いであろうと、たまたまお互いに好き合うにせよ、それが普通であった。ところが、現代では、その過程自然ではなくなっているようなのだ。昔風惚れたはれた関係はもう時代遅れなのであろうか。理由確かにいくつか考えられる。この人しかと熱をあげられるような人物が少ないこと。ぬるま湯社会で育った人間は、いくら格好をつけても、その浅さが見えてしまう。結局な-んだということになるから、すぐさめてしまう。また、男性も女性も、日本のような社会では、確立する機会がほとんどない。生まれたら、親、学校に上がれば、学校組織教師、それが大学まで続き就職すれば、組織が面倒を見てくれるというように、自分で努力をしない限り、日本では、人や組織に頼っな生活が出来る。このごろは、親の方も自分のエゴで子供をいつまでも自分の回りに置いておきたがる。家と将来遺産に、結婚した娘を自分の敷地に住まわせる。婿の家のことなどお構い無しである。それも婿が、長男だったりする。古いかもしれないが、向こうの両親は泣いていることであろう。ところが、男たちも、義理の親の方がよくしてくれるからなどと、情けないことを言って、唯々諾々さんの言いなりになっている。何とも情けない話ではないか。結婚は二人のもの、お互いに助け合って、ほしいものを少しづつ買って喜ぶというような考えは古いのであろうか。私は、若い人に、「家から結婚するな。」とよく言う。どういうことかというと、結婚する前に、六ヶ月でもいいから自分でアパートでも借りて自活することを勧めたいのである。個を確立していない二人が、多分人生で一番困難な結婚生活をどうやって続けていくことが出来るのであるか。結局ままごとの結婚生活に見えてしまう。親も、昔は、もう他家に嫁に行ったのだから、そこを自分の家と思えと言ったものだが、現在は、問題があったらいつでも帰っておいでと言うそうである。まったく行くと来るの違いではないか。子供の将来を思ったら、なぜへその緒が切れないのか。「かわいい子にはをさせろ。」という格言を持ち出すまでもなく、若い人には、出来るだけをさせることが、年配者役割の一つである。苦労と言っても、第三世界餓死可能性直面して生きている人たちのことを考えたら、苦労と呼ぶのが恥ずかしいくらいのチャレンジに過ぎないのである。
こういう風に考えてくると、若者だけを責められない、親の方も人間が出来ていないからだと言える。結局親も子も、大人も子供も、社員も会社も、生徒も教師も、お互いに利用し合って生きていると言える。労なくいい生活をしたいという、ずるい打算がそこに働いている。なあなあそこそこにというのがこれであろうか。夫婦関係も同じことなのではないだろうか。家もいいし、一流大学を出て、一流会社に勤めているし、見掛けも悪くないから、このぐらいでいいかと結婚を決める女性が何人いることだろう。男の方も、自分でこの人がというような女性を見つける才覚も、実力もないから、適当なところで誤魔化しているか、自分は本当に愛されているなどと自惚れてしまう。この辺のところは女性の方が、ずっと上手であり、計算高いことなど気がつかない。要するに打算デート、打算結婚が多いと言えるだろう。「成田離婚」や「パッケージ離婚」などはその破綻がすぐやってきた例で、問題の氷山の一角に過ぎないと思う。前者については、大学の講義でこんな解説を学生にする。一般的に、女性の方が、海外経験をしているし、外国語の習得得意である。そんな新婚者が、ハワイなどに新婚旅行に出かけるとどうなるか。日本では非常に格好よく見えた旦那が、外国に出たとたんおたおたし色褪せてしまう。新婚旅行は、それだけでもかなりのプレシャーなのに、言葉の問題、未知の場所、新しい人間関係などで、かなり参るはずである。嫁さんの方はそういう旦那の醜態を見て、元々、打算で結婚しているのだから、こんなはずではなかったとすぐ醒めてしまって、成田で離婚ということになる。当たり前の話である。男性諸君、もう少し賢くなれと言いたい。本命の女性との初めてのデートに一度も行ったことがない所などに行くな、新婚旅行も然りである。こんな事を言うと女性からお叱りが来そうだが、前に行ったことがある所なら、まず心の余裕が持てる、行く途中には、イカス喫茶店があり、目的地に着いたら、行くところは分かっているし、帰りはなレストランで食事というようにいいところを見せられるではないか。もちろん、他の女性と何回も来ているなどとべらべらしゃべる馬鹿はいないが、あまり悟られないように行動することが必要である。新婚旅行は、相手に安心感信頼感与えることが、一番の目的であると思う。ウチの旦那はやっぱり素敵だと相手に思わせることである。穿ったことを言うと、疲労心労で、初夜もちゃんと出来ない男も多いのではないかとまでお節介なことを考えてしまう。最近は、セックスをしない若夫婦が増えていると聞く。実際統計は分からないが、打算で結婚していれば、性生活は、億劫で、苦痛になってくるのも当然ではないだろうか。何とも寂しい限りである。
後者の「パッケージ離婚」については、開いた口が塞がらないのであるが、やはり、真摯愛情欠如起因していると思う。最近の若い女性は、料理が出来ないというのは本当のようであるが、それをちっとも恥ずかしいとも思っていない。ウチの亭主は料理が好きだからなどと、うそぶいている女性も多くなった。もちろん、お互いがそう了解して住んでいるのであれば、第三者の口を出すところではないが、たいていの家庭では、未だに主婦業が大多数であろう。今はどこのスーパーに行っても、あらゆるお惣菜が手に入る。手間暇かけて作るのが馬鹿馬鹿しくなるのは当然であるが、亭主が家に帰ってくると、そんな晩のおかずが、パッケージのまま出ていた。それで、「いくらなんでもお盛ってほしい。」と亭主が言うと、嫁さんが、「そしたらお皿を洗わなけりゃならないじゃない。」と答えたというまことしやかな話を日本にいる母から聞いた。食事は多分人生で一番大事な要素である。何十年もまずい料理を食わされていたら、いくら美人の嫁さんでも、一生の不覚悟る時が来るだろう。初めから料理が非常に上手な女性は余りいないであろうが、味付けにセンスがあるか、料理が好きか、学ぶ姿勢があるかが、キーである。母親が料理が上手というのも決め手の一つといえる。惚れて惚れられた女房が、心を込めて作った食事が待っていれば、男どももそんなにふらふらしないのではないか。しかし、初めから、あまり愛情がないなら、奥さんの方も、適当に出来合いで誤魔化すことになるであろう。
初めがこうであるから、子供が出来ると、奥さんは旦那を構わなくなるどころか、子供といっしょに厄介もの扱いをすることも多く見られる。最近は掃除洗濯に時間がかからないから、子供が学校に行っている間は、エアロビックスとかテニスのレッスンなどと遊びまわっている女性がよく見かけられる。
日本文化では対話不足しているとよく言われる。個人的なことを言うと、私の家内はカナダ人なので、この違いはよく気づかされる。彼女は、いつも亭主と話をしていたいのである。私もだいぶ慣れたが、初めは、時々気苦労に感じたこともあった。日本人の夫婦に聞くと、一緒に旅をしても話すことがないと言う。皆が皆ということはないであろうが、北米人の場合、一般的に子供より亭主が優先である。子供はいずれ家を出て行くもの、残るのは夫婦二人とはっきり割り切っているから、亭主との対話を大切にする。それで、子供が成長して出て行くことを奨励するし、出て行っても「空巣症候群」にはあまりかからないようである。
女性ばかりを批判していては片手落ちである。女性がこうなったのも、男性側がだらしないからだとも言える。実力もないくせに、空威張りをしたり、格好ばかりにとらわれたり、好きな女性の足となり、バッグまで持ちたいというやからが多くなったと聞く。これでは女性になめられるばかりか、一個人として恥ずかしくないのか。まったく覇気のない男が増えたと嘆くと、年寄りの冷や水のように聞こえるが、男性諸君、男には男の役割があるはずである。それをどう了解するかは個人に任せるとしても、人生を真面目に考え、地道に努力をしている姿が一番魅力的に見えるのだ。あえて性差別用語的な表現を使わせてもらえば、女性に惚れさせる甲斐性を持ってほしい。
愛情とは、畢竟相手を一個の人格としていかに愛するかということに帰着するが、やはりその前に個の確立ということが必要条件になっていると思う。個が確立した人間はもっと魅力的であり、そうなって初めて、この人でなければと思える人物も輩出してくることだろう。 1997年5月29日 トロントにて ヨーク大学日本語科 太田徳夫
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